江戸時代は、理想的なリサイクル社会だった! Page4 様々な職業・・・物を大切にする江戸文化!

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様々な職業・・・物を大切にする江戸文化!

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「 江戸時代は、理想的なリサイクル社会だった!」 をテーマにした、三好俊之介の、江戸時代リサイクル考!俊之介自己紹介
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江戸時代の紙リサイクル事情! page1
江戸時代の庶民の家、長屋のトイレ(下肥)事情! page2
火事と喧嘩は江戸の華! 火事場のリサイクル! page3
様々な職業・・・物を大切にする江戸文化! page4
江戸時代に頂点に達した物を大切にする文化は、今いずこへ・・・ ( 1 ) page5
江戸時代に頂点に達した物を大切にする文化は、今いずこへ・・・ ( 2 ) page6
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江戸には、物を大切にする職業がたくさんありました!

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傘の古骨買い&傘張り


時代劇を見ていて、喰い詰めた浪人者の内職と言えば、なんと言っても傘張りですよね (=^-^=)ノ
私が藩にお暇をいただいて浪人してから、最初に住んだ長屋の大家さんに紹介していただいたのも、傘張りです。俊之介自己紹介

傘張り浪人・俊之介 勝先生は幕臣だから、扶持もあれば、お役に就けばお役料もいただけるので良いのですが、私は無理やり弟子の端っこに加えていただいた身分ですから、自分が食べていくためには、なにがしか働かなければならないんです (=^-^=)ノ
で、話が逸れてしまいましたが、最初にしたアルバイトが、この浪人者の定番・傘張りなんですね!
それまで武家のご奉公しか知らなかった私ですが、浪人してからと言うもの、世の中を知るために、その他にもいろいろとやりました。
でも改めて考えてみると、江戸には物を大切にする職業がたくさんありました。
今回は、そんな職業をご紹介したいと思います。

さて、この傘張りというアルバイト。
これはもちろん、新しい傘を作るのにもこの職業はあったのですが、新しい傘を張るのは、やっぱり専門の職人さんがいらっしゃって、そんな職人さんたちがやっていました。
でも江戸時代の傘って、竹の骨組みに防水性の油紙を張ったもので、素材が紙ですからやっぱり破れやすい。
私たちのような浪人がアルバイトでやるのは、そんな新しい傘が破れてしまったものを、「 傘の古骨買い 」 という職業の方たちが町を回って買って来なさる。 その古い傘の破れた油紙を丁寧に剥がして、骨を水で洗って、またそこに油紙を張って再生する。
アルバイトに回ってくる仕事って、そんな再生の仕事が主でした。
古い傘の古い油紙は、もちろん無駄にはしませんよ!
傘は雨が漏るようになっていても、そこはやっぱり油紙。 防水性は、使い方によっては充分に残っているので、丁寧に切り分けて、きちんと洗ってから、お味噌などを売るお店に買い取ってもらうのです。
お味噌の小売屋さんは樽からお味噌を掬い取って、その防水性のある油紙に包んでお客さんに売るんです。
そんな油紙で包んだお味噌を買って帰ったお客さんは、またその紙を持って、お味噌を買いに行って、何度もそうして使うんです。
江戸時代の人は、物を絶対に無駄に捨てたりはしないんですよ。

ちなみに江戸時代の傘は大まかに二種類あって、個人が買う新しい傘は 「 蛇の目傘 」 といって、張られている紙も綺麗な装飾がなされていたり、おしゃれなものが多かったのです。蛇の目傘
「 蛇の目 」 の名の由来は、その模様が傘の中心から同心円を描くような模様が多かったからです。
そして主に再生傘が使われたのは 「 番傘 」 と言って、商店などがお客さまが急に雨に降られたときなどのために常備しておく貸し傘なんですね。 それには商店の名前と番号が書かれていましたので、「 番傘 」 と呼ばれるようになりました。番傘

ハギレ屋・俊之介

ハギレ屋


さて、私が次にした仕事が、端切屋さん ( はぎれや ) のお店番でした (=^-^=)ノ
傘張りアルバイトでも、私一人ならなんとか食べて行けたのですが、ちょうどその頃、近所に住むお秀ちゃんのお父さんが病気で倒れて、それでお父さんの仕事を手伝うことにしたのです。
幸いお父さんの病気は、お医者さんに診てもらって快方に向かいました。
お秀ちゃん 江戸の町では、特に貧しい人には、小石川養生所 ( こいしかわようじょうしょ ) が設けられ、無料で入院・治療が受けられましたが、お秀ちゃんのお父さんはそれほど貧しくなかったので、町医者にかかりました。
小石川養生所とは、八代将軍・吉宗公の時代に庶民の声を聞くために 「 目安箱 」 というものが設けられ、そこに投書された書面は直に将軍自ら読むという施策がとられたのですが、そこに小川笙船 ( おがわ しょうせん ) という町医師が、貧しい人のための対策を投書したんですね。
 で、それを読んだ吉宗公は直ちに小川医師を評定所に呼び出し、意見を聞きます。
そうして1722年に出来たのが小石川養生所ですが、この施策は、発足から150年を経た幕末まで続きます。
江戸時代の福祉政策も、捨てたものではありませんね〜 (=^-^=)ノ
話がちょっと横道に逸れましたが、私はこの縁で、お秀ちゃんと婚約します・・・ って・・・ もっと逸れてる (^_^;)

端切 ( はぎれ ) は、着物を作るときに反物を裁ちますが、それで余った布地のことで、庶民はそんな端切をたくさん買って、繋ぎ合わせて布団などを作ったんですね。
平成の世にもハギレ屋さんはあるそうですが、江戸時代ほど盛んではないようですね。

古着屋


お秀ちゃんのお父さんが仕事を出来るようになったので、次に私は、お父さんの紹介で古着屋さんのお店を手伝うようになりました。
古着屋・俊之介 元の傘張りアルバイトに戻っても良かったのですが、色々な職業を経験することは、勝先生の下で日本の将来を勉強する私には、絶対必要なことだと思ったからです!

江戸の庶民は、新しい着物を着ることは、まずありませんでした。
新しい着物を作れるのは、武家、それに裕福な商店主やその家族、それに奉公人にしても、そこそこの地位にまで上った人が主で、多くの職人や小商人は、古着屋さんを利用していました。
新しい着物を作る人でも、着古したら古着屋さんに売るのが常でしたので、古着屋さんはいつも繁盛していたようですよ。

しかも庶民は、まずその家の主人の着物を古着で買い、それが古くなると子ども用に仕立て直して子どもに着せ、またそれが古くなるとおしめ ( オムツ ) に使い、そしてそれも古くなると雑巾にして最後まで使う。
実にひとつの生地を最後の最後まで、使えるだけ使って、生地の寿命が尽きるまで大切に使ったんですね。
驚いたことに、亡くなった人が着ていた着物ですら古着屋に出ていて、庶民は、
「 むしろ厄が落ちていいや! 」 などとうそぶいて着ていたとか・・・
確かに庶民が貧しかったということもあるのでしょうが、物を大切に使う、それは言い換えれば無駄に捨てることを恐れるような、信仰に近い思いがあったのでしょうね。

さてさて、私のアルバイトもこの辺りから、徐々に専門的な職人の道にまで踏み出すようになります!

焼き継ぎ屋・俊之介

焼き継ぎ屋


次にやったのは、焼き継ぎ屋 (=^-^=)ノ
焼き継ぎとは、割れたお茶碗などの陶磁器を、石灰に麩糊 ( ふのり ) と粘土を混ぜた接着剤でつないで、火鉢や七輪で焼きなおして元通りに使えるように修理する優れ技なんですね!
これは難しい技術がいるので、職人の技術を盗まなければなりません。
江戸時代の職人技って、新人に手取り足取り教えてくれるような親方はいなかったんですよ。 言いつけれられた雑用をこなしながら、技を盗め! って言われるんですよね。 だから仕事中は一時も気を抜くことなく、用事をしながら親方や先輩のなさる技を見て覚えるのです。
どうです! 左の絵の、私の真剣なまなざし!

実は焼き継ぎ屋さんは、お店を開いてそこで作業をするという形態は少ないんです。
天秤棒の片方には火を熾した火鉢を入れて、もう片方には石灰などの材料を入れて、それを担いで・・
「 焼き継ぎぃ〜、焼き継ぎぃ〜 」 と言いながら町内を歩くんですね。
長屋の木戸口に首を突っ込んで、「 焼き継ぎぃ〜、焼き継ぎぃ〜 」
大店の店先で、「 焼き継ぎぃ〜、焼き継ぎぃ〜 」
煮売り屋 ( 飲食店 ) や旅籠の並んだ繁華街で、「 焼き継ぎぃ〜、焼き継ぎぃ〜 」
と、こうして歩いていて、声がかかるとその店先を借りて作業を始めるんです。
いやぁ、そうした人との触れあいもさることながら、壊れてしまったものを修理する喜びって、やっぱり格別ですね。

箍屋(たが屋)&下駄の歯入れ屋


そうして物を修理する喜びを知った私は、次に箍屋 ( たがや ) の親父さんに弟子入りしました。
箍 ( たが ) と言うのは、樽 ( たる ) や桶 ( おけ ) の胴にはめて、胴が分解しないように締め付けているもので、金属 ( 主に銅 ) 製のものや竹製のものがあります。 一般的には、金属は高価ですから、竹製が多かったですね。
たが屋・俊之介 胴の周囲にカーブを持った板を何枚も繋いで、全体の形を円く作り、それを箍で締め上げて胴を構成している板同士の接着をきつくして水も漏らさぬ桶や樽が出来上がるわけです。
別に板と板との間には接着剤を用いているわけではなく、箍の締め付ける力だけで形が崩れないようにしているわけですから、この箍が緩むと、バラバラになってしまいますし、バラバラになる程ではなくても、水は漏れて用を成さなくなるわけです。
そうした箍が緩んだ桶も、江戸では決して捨てるようなことをせずに、こうして職人が修理していたんですね。

他にも下駄などは、鼻緒を取り替えるなんてのは当たり前で、もっと履いていると底の歯が減ってきます。
そうした歯が減った下駄の歯を取り替える下駄の歯入れ屋だとか、平成の世では考えられないような修理業者がたくさんいたんです。
このページで取り上げた以外にも、page1で取り上げた 「 古紙買い 」、page2で取り上げた 「 下肥問屋 」や 「 ろうそくの流れ買い 」、page3で取り上げた 「 火事始末 」 や 「 灰買い 」、その他にも金属類を取り扱う業者や古着を着つぶしてしまった布地を再利用する業者など、生活の隅々にまでリユース、リサイクルのシステムが浸透していました。
物の寿命が尽きるまで使い続けてやる。 そんな信仰にも似た観念というか、思想が徹底していたんですね。

縄文以来発達させ、江戸時代に頂点に達した日本の物を大切にする文化は、いずこへ・・・


平成の世では、かなり高価な電化製品でも、あるいはもっと高価な自動車でさえも、修理するよりは新品を買った方が安くつくとのことで、まだまだ修理すれば寿命が延びそうなものでも廃棄されているとか・・・
あるいは、まだ壊れてもいないものでも、古くなったからという理由だけで、捨てられているとか・・・
これほど物の寿命が尽きるまで使い続ける、それが物に対する礼儀でもあるかのような思想が徹底していた江戸時代に生きる私には、理解できないことです。
なぜ、こうなったのでしょう・・・ 日本人は、なぜこんなに変わってしまったのでしょう・・・
日本の将来を勉強している私としては、とても気になるところです。
次回は、この辺りの事情を考察してみたいと思います。
page5 に、つづく・・・

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江戸時代の紙リサイクル事情! page1
江戸時代の庶民の家、長屋のトイレ(下肥)事情! page2
火事と喧嘩は江戸の華! 火事場のリサイクル! page3
様々な職業・・・物を大切にする江戸文化! page4
江戸時代に頂点に達した物を大切にする文化は、今いずこへ・・・ ( 1 ) page5
江戸時代に頂点に達した物を大切にする文化は、今いずこへ・・・ ( 2 ) page6
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