江戸時代は、理想的なリサイクル社会だった! Page3 火事と喧嘩は江戸の華!

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火事と喧嘩は江戸の華! 火事場のリサイクル!

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「 江戸時代は、理想的なリサイクル社会だった!」 をテーマにした、三好俊之介の、江戸時代リサイクル考!俊之介自己紹介
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江戸時代の紙リサイクル事情! page1
江戸時代の庶民の家、長屋のトイレ(下肥)事情! page2
火事と喧嘩は江戸の華! 火事場のリサイクル! page3
様々な職業・・・物を大切にする江戸文化! page4
江戸時代に頂点に達した物を大切にする文化は、今いずこへ・・・ ( 1 ) page5
江戸時代に頂点に達した物を大切にする文化は、今いずこへ・・・ ( 2 ) page6
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火事の多かった江戸ですが、燃えてしまった家屋も、決して無駄にはしませんでした!

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纏持ち・俊之介 火事と喧嘩は江戸の華!
焼け出される不幸もさることながら、鳶火消しの粋が取りざたされた江戸の町ですが・・・

江戸の町の人口は100万人と、この 「 三好俊之介の、江戸時代リサイクル考! 」 コーナーの冒頭で述べましたが、当初、家康公が征夷大将軍となって江戸の天下普請を始められたころの人口は20万人にも達していなかったでしょう。
それが天下普請と共に全国の大名の江戸屋敷が整備され、そこに武家が入る。
三代家光公の時代に参勤交代が制度化されて、各地大名の家族は江戸に住まいすることを義務付けられ、大名本人も一年ごとに江戸と国許を行き来し、1年は国許1年は江戸と、江戸滞在の機会が多くなります。 当然それには大勢のご家来衆が同道なされますし、江戸定府 ( じょうふ ) と言って、常に江戸の藩屋敷で勤めをなさる武家もたくさんいらっしゃいました。

そしてそれら武家の需要を賄うための町人町が次第に拡充され、幕府が開かれて100年ほど後の五代将軍・綱吉公の元禄時代になると、総人口は85万人くらい。
そしてそれから20年くらい後の 「 暴れん坊将軍 」 の、八代吉宗公の頃に100万人に達したと思われます。  私、三好俊之介 俊之介自己紹介 が住まいする幕末には、総人口は126万人に達していたといいますから、当時のロンドンが85万人ですから、江戸の大きさが判ろうというものです。

江戸には全国から武士が集まっていましたので、他の地方とは違って、武士と町人の人口比は、半分半分でした。
ところがやはり身分制度の厳しかったこの時代、江戸府内の土地使用率は、武家地が65%、町屋地が15-20%、その他が寺社や防火用の火避け地 ( 火事になった場合の、それ以上の延焼を食い止めるための空き地 ) などだったと言われています。
つまり、江戸の総面積の15-20%に、半分の人口が集中していたということです。
平成の東京では、人口密度の高い台東区で1平方キロ当り3万人程度の密集度だと言われていますが、江戸の町屋地では、1平方キロ当り4万人が住んでいたのではないかとする試算があります。
ほとんどが平屋で高層住宅など存在しない江戸で、これはすさまじい値です。
庶民の住宅は、当然狭小にならざるを得ません。
その辺りが、前稿の 「 庶民の家、長屋のトイレ(下肥)事情! 」 で申し上げましたように、庶民の住宅である、一般に 「 九尺二間 」 と言われる棟割長屋に象徴されています。
一家庭の住まいが、間口九尺で奥行き二間なんですから、四畳半の座敷が一間に、その前に1畳半くらいの玄関兼台所の土間が付いている程度の広さ。
そこに家族4〜5人が住むのですから、狭いことこの上ない。
しかし、それでも暮らしが成り立ったのは、そこに日本古来の、多くの 「 物 」 を必要としない生活文化があったからでしょう。

Schliemann 前稿 「 江戸時代の紙リサイクル事情! 」 でもご登場いただいた、あのトロイの木馬で有名なトロイア遺跡を発掘したことで名を馳せるシュリーマン氏は、幕末の日本にも来ていて、その折の旅行記 ( 講談社学術文庫 『 シュリーマン旅行記 清国・日本 』 ) で、
「 道を歩きながら日本人の家庭生活のしくみを細かく観察することができる。 家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。 日本人はみんな園芸愛好家である。 日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。
- 中略 -
食事が終わると主婦が椀と箸を片付け、洗って、引き戸の後ろの棚に戻す。 このようにして食事の名残は、またたく間に消えてしまう。 それというのも、元に戻すべき椅子も、取り除くべきテーブル・クロスも、移動すべきテーブルも、たたむべきナプキンも、洗うべきコップもナイフもスプーンも、小皿も大皿も、ソース入れもコーヒー茶碗もポットも、どれ一つとして、日本には存在しないという単純な理由による。
夜の九時ごろには、みな眠ってしまう。 家族がその上で一日を過ごしたござ ( 畳のこと-俊之介・注 ) は、同時にベッド、マットレス、シーツの用を務めるのである。
- 中略 -
ヨーロッパでは、食器戸棚、婦人用衣装箪笥や男性用の洋服箪笥、ヘッドボードにテーブル、椅子、それにもろもろの最小限必要とされる家具類の豪華さを、隣人たちと競い合う。 だから多少とも広い住宅、幾人もの召使、調度品をそろえるための資産が必要だし、年間の莫大な出費がどうしても必要になる。
- 中略 -
ところが日本に来て私は、ヨーロッパで必要不可欠だとみなされていたものの大部分は、もともとあったものではなく、文明がつくりだしたものであることに気がついた。 寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要ではないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからにすぎないこと、それらぬきでもじゅうぶんやっていけるのだとわかったのである。 もし正座に慣れたら、つまり椅子やテーブル、長椅子、あるいはベッドとして、この美しいござを用いることに慣れることができたら、今と同じくらい快適に生活できるだろう。 」
と、生活に多くの 「 物 」 を必要としない日本文化を、感動を持って述べられておられます。
平成の、物の溢れた文化に親しんでおられる方々にはなかなかご理解頂けないかも知れませんが、これが日本古来の生活文化なんですね。

さてさて、前置きが長くなりましたが、ここからが本論 (^_^;)

このように超密集の町屋では、一旦火が出ると手が付けられない大火事になることが多かったのです。
日本の風土に合った建築とは言え、家作はすべて木と紙で作られていましたし、消火にも人力以外のエネルギーを駆使できる時代でもなし、平成の世のようにポンプで高水圧の水を大量に注いで消火できるわけもありません。
消火に、辻々に置かれた防火桶の水を使うのは、ほんのボヤ程度の初期消火に限られていました。
本格的に燃え始めたら、手段は破壊消防しかありませんでした。
燃えている家の風下側の家を、次々に破壊して撤去する。 つまり、そこに燃えるものを無くしてしまうのです。
そうした消火法でしたから、普段は家の建設に携わる鳶が、建築物の構造などを熟知していて効率よく家を破壊できることから、火消しも兼ねていたのです。

四代将軍・家綱公が将軍位を嗣がれて7年目の明暦三年一月 ( 1657 )、俗に 「 振袖火事 」 と言われる明暦の大火が発生します。
この火事では、一説では死者数10万〜20万、江戸城本丸や天守閣をはじめ、江戸の大半が焼き尽くされたと伝えられています。
ほぼ同時代にロンドンを焼き尽くした 「 ロンドン大火 」 と、紀元64年の、あの皇帝ネロの放火だったんじゃないか、いやキリスト教徒の放火だとか、いろいろ言われている 「 ローマ大火 」 と並ぶ、世界三大大火のひとつと言われています。
その大火災を契機に幕府は江戸の大改造に手をつけ、江戸城内から御三家はじめ諸大名の屋敷を城外に移して跡地は全て空き地として防火地の役割を持たせ、神社や寺は江戸の中心部から周辺部に移し、広小路や防火堤、それに火除け地という空き地を各地に配置。 その分、隅田川の東、本所 ( 墨田区 ) 深川 ( 江東区 ) に市街地を広げて武家屋敷や寺社、それに町屋もそちらに移す事業を開始します。
そして火災時の避難経路確保と上記方面居住者の便のために両国橋を架けて、命の綱の避難路である橋の周辺は火除け地として橋を守る手立てを講じます。
また、幕府直卒の家臣である旗本に、消防組織である 「 常火消 ( じょうびけし ) 」 を組織させています。

このように火事に対する防備も着々と強められていましたが、それでも不十分で、八代将軍・吉宗公のときには、南町奉行・大岡越前守が音頭をとって、町人町の自衛消防団として自然発生的に出来ていた鳶火消しを 「 いろは四十八組 」 に整備して強化し、また、その頃までは町屋のほとんどが板葺きの屋根だったのを防火 ( 飛び火による延焼防止 ) のために瓦葺にするように改めたりと、火に強い町づくりに邁進したのでした。
( 以来町火消しは 「 い組 」 「 ろ組 」 などと称しましたが、いろは48文字の内の語呂の悪い 「 へ、ら、ひ、ん 」 はそれぞれ 「 百、千、万、本 」 に替えて名乗りました )

しかしそれでも庶民の家の密集は変わらず、また常日頃、煮炊きにも照明にも、狭い家内で火を使わなければならない生活では出火自体を撲滅することは難しく、小火事はしょっちゅう、また20〜30年に一度は大火が起こるのは、避けられないことでした。
竜吐水 そして火事のたびに、粋でいなせな火消したちが駆けつけて、命を懸けて火と闘う。
そうした姿が頼り甲斐のある英雄として庶民の目に映り、彼らが活躍する姿、特に火事の最前線で、ここから風下側を打ち壊すと宣言するために、火を防ぐための刺子の長半纏を着込んで、火事場の屋根上で纏を振るって馬簾 ( ばれん・纏にたれ下げた細長い飾りで、いろは48組にちなんで48本ある ) を翻す纏持ちの姿は、憧れの的にもなったのです。
ただの飾りのように思える纏についている馬簾も、実は飛んでくる火の粉を振り払う意味があったんですよ。

ちなみに 「 竜吐水 ( りゅうどすい ) 」 と呼ばれる手動のポンプは、明和元年 ( 1764 ) に幕府から町火消しに55基が与えられたとの記録がありますが、ほとんど消火の用には立たず、屋上で纏を振る纏持ちを守るための水掛けに用いられたと言います。
( 三好俊之介は、「 や 」 組の纏持ちの経験もあり! 大変もてたそうです! )
( 五代子孫の三好一俊が、平成の世で有限会社ヤスモトの代表者を勤めているのも 「 や 」 つながり? )

さてさてさて、またまた長くなりましたが、ここからが本論の本論 (^_^;)
火事始末御用 いよいよ、火事場のリサイクルに目を向けます。

平成の世の佐伯泰英とおっしゃる作家が、「 密命 」 というシリーズ ( 祥伝社文庫 ) の時代小説を書いておられます。
時代は五代・綱吉公から八代・吉宗公にかけての物語で、そこに 「 火事始末御用 」 という商売が紹介され、主人公の金杉惣三郎という剣士がその商売を手伝いながら市井の人情に触れつつ、吉宗公を守るため南町奉行・大岡越前守に協力するという物語です。
その 「 火事始末御用 」 とは、物語中では荒神屋喜八という人が始めた商売だと紹介されていますが、火事の多い江戸のこと、豪商などは店屋敷が火事で焼けてしまった場合に備えて、現住の建物と同じ物を作れる木材を、同じように裁断を済ませた形で木場に預けておき、いざ火事で焼けてしまったら一刻も早く再建するため、焼け跡に残された残骸の整理を 「 火事始末御用 」 に依頼し、てきぱきと1〜2日で片付けさせてから、驚くほど早く店を再建したと言うのです。

小説の中だけの話ではなく実際にもそのような商売はありまして、火事始末屋は、地主・家主から請け負った焼け跡の整理料が主な収入源だったのですが、その他に、火事場の整理ですからそこからはたくさんの残骸が出て、それを整備して販売するのも、大きな収入源だったのです。
金物回収 材木などの燃え残りが主なものですが、その燃えカスのような材木から、もちろん当時は貴重品であった釘などの金物を丁寧に取り外して、再び使えそうな材木には鉋をかけたり焦げ跡を削ったりして再生して、新品の1/10ほどの値で売ったり、また使えそうもないほどに焼け焦げたものは、のこぎりで適切な寸法にカットして、湯屋 ( 銭湯 ) に燃料として売るなどしていたんですね。

火消しの活躍で鎮火すると、「 押し出すぜ〜! 」 の掛け声のもと、「 火事始末御用 」 の提灯を押し立てて何台もの大八車が出動します。
江戸の町では、防犯のために各町々の境界には木戸が設けられ、夜は閉じられています。
木戸脇には町の自衛組織が建てた自身番 ( 番所 ) が置かれ、そこには昼には町役人が常駐し、夜は町に雇われた番人が目を光らせていました。
町の構造そのものが、犯罪者には、町の境を越えて逃走することが難しく出来ていたのです。
のこ引き そこで、火事始末屋など、夜でも木戸を越えて出動しなければならないような職種には 「 御用 」 の提示された提灯使用が認められ、その提灯を掲げていれば木戸をフリーパス出来たのです。
平成の世の、赤色回転灯やサイレンを鳴らしながら走行することが許されている緊急自動車のような存在ですね。

大八車には、かけや ( 掛矢・大木槌 ) や鳶口など、家屋解体の道具と荒縄などを載せて出動し、火事場整理が終わるとその大八車に、火事場から出た燃えた材木などの残骸を満載して持ち帰るのです。
そうして作業場に持ち帰られた火事場の残骸は、火事のない日ごろ、職人たちが磨いたり切ったり削ったりと手をかけて、再利用できるように加工し、どうにもならないような燃え残りは一定の長さ・太さに切り刻んで、湯屋 ( 銭湯 ) に燃料として売却するなど、まさに江戸の社会は、使えるものは最後まで使う、利用させていただいた資源はその寿命が尽きるまで使わせていただくと言う理念が、隅々まで行き渡っていたのですね。

火事場の話ではないのですが、江戸の人々が日々、煮炊きやお風呂沸かしのために薪を燃やす。
その後に発生する灰さえも、これを買い集める 「 灰買い 」 という業者がいました。 灰は、天然のアルカリとして、貴重な資源だったのです。
そうして買い集めた灰は、洗剤としても有効に使われましたし、また農地に撒いて土壌改善にも使われたのです。
おそらく、火事場から出た材木の燃えカスを燃料にして湯を沸かした銭湯なども、こうした灰買い業者の貴重なお得意先だったのでしょうね。
江戸のリデュース・リユース・リサイクル リサイクルとリユース に、脱帽です!
page4 に、つづく・・・

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